長寿社会の光と影:健康が優れない高齢者の現実と私たちの向き合い方

辛く、さみしい現実:長寿社会の「影」に向き合う

今回は、普段は目をそらしがちな日本の長寿社会の「影」について考えてみたいと思います。

先日、NHKのドキュメンタリー番組で「長寿社会の光と影」が特集されていました。そこでは、健康や希望ばかりが語られがちな「長生きの裏側」にある、厳しい現実が描かれていました。

健康で元気な高齢者にとって、長寿社会は「まだまだ人生を楽しめる希望」となります。しかし一方で、病気や体の不自由で、長期入院や介護を余儀なくされる方にとっては、「長く生きること」そのものが喜びとは限らないのです。

番組で紹介されていたある高齢女性の言葉が、強く心に残りました。

「長生きなんて、元気な人のための言葉。寝たきりで病院にいるのは、もう生きている意味がわからない」

そこには、深い疲れと孤独がにじんでいました。私たちが今向き合うべき課題は、まさに長寿の先にある生活の質」ではないでしょうか。

長寿の先にある「10年」の現実

長寿社会は、医療の発達や生活環境の改善による素晴らしい成果です。しかし同時に、無視できない課題もあります。それは、平均寿命と健康寿命の差です。

厚生労働省の統計によれば、日本人の平均寿命と健康寿命にはおよそ10年の差があります。この約10年間、多くの高齢者は介護や医療に依存する生活を送らざるを得ません。

この「健康でいられない期間」は、本人にとっても、そして介護する家族にとっても、非常に辛い時間です。自分の意思を自由に伝えられず、体も思うように動かせない状態で「生かされている」日々は、想像以上のストレスと孤独を伴います。さらに介護する家族の負担も大きく、生活全体に影響を及ぼすことも少なくありません。

こうした現実の前で、私たちは避けられない問いに直面します。それは、「どう生きたいのか」と同時に、「どのような最期を迎えたいのか」という問いです。長寿社会とは、単に長く生きることではなく、質の高い人生を送り、尊厳を保って最期を迎えることを考えるきっかけでもあるのです。

個人の尊厳と「最期の選択」

では、この「長生きの苦しみ」をどう解消していくべきでしょうか。

大切なのは、高齢者本人が自分の意思を表明できる仕組みと、家族と十分に話し合える環境を整えることです。健康寿命を延ばす努力はもちろん重要ですが、それだけでは解決できない現実があることも認める必要があります。そして、「最期の迎え方」についても、社会全体で考えていくことが求められます。

その議論の中には、安楽死や尊厳死の問題も含まれます。

日本では、患者の意思に基づく安楽死は合法ではなく、医師が死を早める行為は犯罪となります。しかし、終末期医療の現場では、患者の尊厳を守るために、延命治療の中止や緩和ケアの提供が行われています。たとえば、患者・家族・医師が話し合い、合意のもとで延命治療を中止することは可能です。これは安楽死とは異なり、患者の意思を尊重しながら自然な死を迎える行為です。

日本社会が抱える課題

欧米では、患者の自己決定権を尊重し、条件付きで安楽死や尊厳死を合法化している国もあります。オランダでは、治療法がなく耐え難い苦痛にある患者に対し、医師が本人の意思を確認して安楽死を行うことが認められています。

しかし日本では、このテーマに関する議論は進みにくい現状があります。文化や倫理観、そして「死ぬ権利」を認めることへの不安、医師に「死を促す義務」を負わせてしまう懸念などがあるためです。また、死をタブー視する文化や周囲への「忖度」も影響し、安楽死や尊厳死に関する社会的合意が形成されにくい状況があります。

「どう生きるか」と同じくらい「どう死ぬか」を考える

正解があるわけではない難しいテーマです。しかし、避けられない長寿社会の現実の中で、自分の人生の終わり方を考えることは、日本社会全体の課題でもあります。安楽死や尊厳死に関する議論は、法律の問題だけでなく、私たちの生死観や価値観に深く関わる問題です。

これからは、患者の意思を尊重しつつ、社会全体でこの議論を深めていく必要があります。

皆さんは、もし自分が寝たきりになったら、あるいは自分で意思を伝えられなくなったらどうしたいですか?
家族や大切な人と話し合っておくことは、残された人生を自分らしく過ごすための第一歩になるはずです。

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